*再考察* 太陽の塔 (森見登美彦)

先日『総特集 森見登美彦』に目を通した。

 

 

300頁を超えるボリューム満点の一冊だった。1頁目にはラッキーなことにサインが…!

 

太陽の塔についても多くの記述が見られた。

 

制作裏話や、作者の意図なんかを読んでしまうと、それまでの私にとっての"太陽の塔"がそれ以前とは決定的に違うものになってしまいそうで、この特集は比較的早く購入していたのにも関わらずしばらく積読にしていた。たとえ私の読み方が作者の意図とは異なる誤読紛いのものであっても、私の青春時代に面白おかしい一撃を加えたこの小説の思い出は、私にとっては大事なものだったからです。

 

 

さて、2ヶ月の期間を置いて、その間に太陽の塔は更に2回読めたので、いよいよ読むことにした。どうやら、太陽の塔は妄想9割のお話らしい…おやおや…

 

 

よく考えてみたら、この手記は何故書かれたのか?

 

つまり…主人公はどういった経緯で手記を書こうと思ったのだろうか?

 

妄想だというのなら、ラストの意味も少し変わってくる。

 

 

答え合わせがしたいわけではない。作品は出版された時点で、独り歩きを始めているはずだ。だから一つの作品から読み手の数だけの物語が生まれる。したがってそもそも答えなど存在しないのではないか?私達に出来ることは、読んで素直に感じたことを大事にすることであって、作者の意図する通りに読もうとすることなどではない。

 

 

この小説が主人公の妄想小説なのだということは、しばし私を混乱させる。

 

一体どこまでが妄想で、どこまでが現実なのか、分からなくなる。

 

 

手記を書くとは

"私"は何故手記を書こうと思ったのか。この"作品"は賞を受賞し出版され読者に読まれているが、普通手記は殆どの人には読まれない。唯一の読者は"私"であるはずだ。

 

"私"がこの手記を何処か公の場へ投稿したということも考えられないではない。だが内容的にその線は薄いと思われる。私的には『"私"が自分が読む為に書いた手記』を、作品世界の外側から我々現実世界の読者がいわば神の目を通すように勝手に読んでいる…といったようなメタ的な読み方がしっくりくる。"私"は読者を想定した書き方をしているが他人に読まれる事態を想定していない。

 

手記であるならば、まず最初のモチベーションは投稿ではないだろう。自分自身を客観的に見つめなおす為。消したくない記憶を忘れないようにする為。自分自身を認める為…

 

ともかく、この手記のメインターゲットは"私"であると思われる。

 

幻想的出来事は妄想である

私は最初、線路を外れて走る叡山電車や彼女の夢の中への潜入などを、ファンタジーとみなして現実と混同させる読み方をした。ファンタジー小説なのだから、そんなあり得ない出来事も実際に起きたとして何の不思議があろうか。

 

しかし氏曰く、これら"あり得ない出来事"は主人公の妄想だという。

 

主人公たちの目線だけでファンタジーにしているわけですよね。だからそれを実際に起こっている出来事として書いてしまったときに面白く読んでもらえるのかどうかがわからなくて。

総特集 森見登美彦 46頁 -ロングインタビュー | 森見登美彦×佐々木敦

 

それまでは、僕が街を歩いていて面白い建物や路地を見たときに妄想したことは、妄想としてでしか書いてはいけないと思っていたんです。だから書くにしろ、「これは妄想ですよ」って言いわけをした上で書いていたんですね。

総特集 森見登美彦 48頁 -ロングインタビュー | 森見登美彦×佐々木敦

 

となると、男同士で集まってくだらない話をしたり、彼女に振られた後彼女研究を継続したり、ええじゃないか騒動(私はこれはギリギリ妄想ではない方の箱にいれたい)といった描写は実際に行われた出来事であると考えても、叡電太陽の塔などの不思議な出来事は、現実を材料の一つとして四畳半で創り出された主人公の作品ということになる。

 

 

つまり現実世界では殆ど何も起きていない

(クリスマスムードがぶち壊されただけである)

 

叡山電車は線路を外れて走っていないし、"私"も遠藤も彼女の夢の中へは行けていないし、彼女の夢の中に私との思い出が未だに転がっているかどうかは分からない。

 

ええじゃないか騒動の後、太陽の塔の下で彼女に会えたことも妄想だということになる。

 

 

そして恐るべきことに、そう考えると作中で"私"はええじゃないか騒動で彼女を人混みの中に見つけたとき以外、殆ど一回も彼女に接触していない。

 

ともかく、我々の日常の大半は、そのような豊かで過酷な妄想によって成り立っていた。

かつて飾磨はこう言った。

「我々の日常の九〇パーセントは、頭の中で起こっている」

太陽の塔 -82頁

 

つまりだ。"私"は今の水尾さんの考えていることは全く何ひとつ分かりようがないのである。だから過去を振り返って想像する。彼女がまだ自分との思い出を覚えていてくれないかと。そしてそんな妄想をしていくうちに、継続してきた強がりの理論武装にひびが入っていく。

 

その妄想をしてしまうという事実は、"私"がいかに彼女を好きだったかを自覚させるには十分過ぎるものだったからだ。"私"はその自覚を拒み続けることで…彼女への未練を研究と書き換えることで平静を保ってきたのに。

 

何の為の手記か

この手記は、"私"が"私"の為に書いた、失恋の始まりから終わりまでを描いた作品だ。そして、"手記を書いている" という事実から想像されるのは、"私"は"私"の望むような展開を手にすることができなかったということだ。

 

私は明らかに主人公贔屓の偏光眼鏡を掛けていたので、2人が結ばれるまでいかぬまでも、その先を感じさせるような想像をしてきた。つまり、この物語を"彼等の"再生だと捉えていた。

 

でも、全てが妄想だったというのなら、そんな想像は少しだけ改めなくてはいけない。これは主人公の立ち直りまでを描いた"彼の"再生の物語であり、彼は太陽の塔の前で自分の弱さと対峙し、妄想の世界から次の一歩を決意したのではないだろうか。

 

 

 

この小説は主人公の気持ちの整理の最後の一歩だった。

 

そう思って読むと、何とも切ないなぁ…