道化の麻薬的快楽と彼の話

少年時代には、抑えがたい「はしゃぎたい」欲求が付き物ではないだろうか。それは子供であることの証であるかもしれない。自分の舵を自分の意識で取れるようになったとき、少年は大人になる。制御の利かない自己という未熟さを捨てて、私たちは自分の操縦の仕方を覚えていく。

 

「8月20日にそっちに帰るよ」

 

そのメッセージを受け取ったのは7月の頭だった。

 

彼が帰ってくる。私はすぐに、もう一人の友人に連絡を取った。

 

 

彼は大学の2年生まで同学年を過ごしたサークルの同輩で、私が出会った中で最も頑固でまじめな人間である。そして恐らく、ふざけるということに関しては恐ろしく柔軟性に欠ける男であった。全くふざけないというわけではなく、寧ろ頻繁に冗談を言ったが、彼の冗談のセンスは、恐らく小学1年生のころから一向に進化していないのだろうと思うほどに凄まじいもので、息をするかのように人に中指を立てており、頭がいいにもかかわらず頻繁に使われる彼の語彙は「バカ」「シネ」「ウンコ」のみであった。これらは恐らく彼のツッコミ3種の神器だったのである。

 

彼は稀に見る強靭な精神力の持ち主で、人のボケに対し手を抜くことなく神器を振るった。彼は私のツボを完全に押さえており、彼と話しているとどうしても私はふざけ倒してしまうのである。阿呆でいられることは、一種の快楽なのであった。

 

彼は意図的にデリカシーを破壊するというポリシーを掲げていた。デリカシーと名乗るものあらば意気揚々と戦争を仕掛けに行くような男であった。ある種の照れ隠しだったのだろうかとも思う。

 

彼は全く自慢にならないことを堂々と自慢した。恐るべき偏食家で、「肉と炭水化物以外は不要」であると言い切った。「野菜全般と生クリームと辛いものとその他もろもろは大嫌い」であるという、衝撃の食わず嫌いであった。あまりに細分化され定義づけられた彼の嫌いなものリストは膨大な量に上り、我々は早々に記憶を諦めた。いったいこの人は何を誇らしげに話しているのだろうかと、私はしきりに首をかしげたものだった。

 

彼はとにかく、よりよく生きることには労を惜しまない人間であった。彼は身につけて役立つと思われる技能には端から興味を持ち、スターバックスで働いた。友達の家に遊びに行ったら彼がいて、必死にオペレーションを勉強していたのを記憶している。なぜ人のうちでスタバの勉強をしていたのかは不明だが、家主は部屋の隅に追いやられており、私は彼が持ってきたスタバのコーヒーを拝借して帰った。

 

彼は万事に於いて、なぜその選択をしたのかに対する説明が用意されているような男であった。これは他と比較しても見どころのある点であり、所謂天然の"伸びる人材"であったのだと思う。その類まれなモチベーション自給力は特筆に値する代物であった。

 

2年生の4月、彼は医学部を再受験することを周囲に告白した。当時私は彼がどれだけの危険を承知で再び挑戦をしようとしているのか、どれだけの覚悟があってその道を選んだのか、理解するだけの関わりを持っていなかったので、その挑戦は現実的には相当厳しいものなのではないかと思っていた。

 

はて、彼は大学のサークルの合宿の係だったので、その係は別の人に頼むのだろうかと思って見ていると、彼はそれをやり切ってからサークルを退会すると言った。そんなことができるのだろうかと、私は半信半疑だった。我々茶道部の合宿の準備は、参加人数が50名ほどということもあり、夏休みが半分吹き飛ぶほど多くの時間と集中力を犠牲にしなければできないことと聞いていたからである。

 

流石に心配にもなって、合宿のしおり作りなどの雑用は一部引き受けることにした。これは普通に私も作っていて楽しい作業だったが、えらく時間が掛かったので申し出て良かったと感じた。逆に言えばそれ以外のことには殆どノータッチだったので彼がどういう夏を過ごしたのかは知らぬままだった。

 

彼は合宿を前例がないほど首尾よくこなした。後に引き継いだ彼のノートにはその莫大な努力を証明する大量の書き込みがなされていた。退会するサークルの為にここまでするなんて、偉い奴だと思った。とてもありがたいけど、彼は半年後に医学部を受験することをちゃんと覚えているのだろうかと思わず疑ってしまうような仕事ぶりだった。

 

合宿の2日目、私が友人と2人でバーベキューの支度をしていると、館内で諸々の仕事を終えた彼が準備の進行確認にやってきた。

 

彼は来てそうそうに「俺は野菜は食わねぇ」と、聞いてもいない反菜食主義宣言をした。私はまたしても悪魔の囁きに従って「きっとバカだから味が分からないんだよ」とプロレスを仕掛け、日課のように浴びてきた彼の「シネ!」をその日もありがたく聞くことにした。

 

その後はタガが外れてしまって、耐えきれなくなった友人と二人で勝手なことを言っては阿呆のように笑い転げ、彼を半ば置き去りにした。これは三日間の合宿で最も愉快な一時であった。私はそこそこに愉快な人間であると言われるが、同時にそこそこに真剣にもなれる人間であると言われる(彼に言われた)。それが彼の前では全く真面目になれないのである。特に誰かもう一人を交えて三人で話すという状況には弱かった。

 

俺の前でも真剣になれよと、そういうことだったのかもしれないが、どうしてもこれは不可能であり、なぜこんなにどうしようもない内容しか喋れなくなってしまうのか、いくら考えてみても、結局理由は分からなかった。

 

彼は医学部に受かった。センター試験本試をインフルエンザで棄権し、追試を受験してからの国立大学医学部合格であった。彼は受かるべくして受かった。後で聞いた彼の受験対策は合宿の仕事を更に凌ぐ綿密な作戦の上で行われていたのである。

 

私は彼に対して半信半疑でいたことを恥じた。合格は彼の決意の深さを物語っているのだから、私が揶揄したのは、私が恐らくは一度もしたことのないような緻密な努力だった。合格後に食事をしたとき、私は彼に謝った。彼は気にするなと言ってくれたが、人の本気に対して、ほんの少しでも嘲りに似た態度を取ってしまった自分が恥ずかしかった。

 

 そして彼は沖縄に旅立っていった。

 

 〇

 

彼が返ってくる。私はすぐに友人に連絡し、3人で集まる約束を取り付けた。誘ったのは例のバーベキューの友人である。

 

詳細を決めるべく、再び彼に連絡を取った。

 

「どこに行きたい?」

「やっぱり横浜かな。こっちに帰ってくるのは久しぶりだから。」

「オッケー!横浜は見るべきところが一つもないから、やめよう!」

 

 初っ端からこんなどうしようもない返信をしたせいで返事が返ってこなくなってしまった。仕方なく、他にどこか面白そうな場所は無いだろうかと考えて、

 

「神保町に行こう」

 

 と送信した。私が行きたかっただけである。彼は結局、千葉から東京に来るのに横浜を経由するわけではないので、横浜に再び立つことはなかった。彼が帰ってくると知った時点から既に、大学4年間で積み上げてきたものが掌から溢れていくような気がした。

 

ああ、そんな人間、どうしようもないロクデナシだということは分かっていても、あまりに自然に私はそれまでの修養を、決意をする暇さえなく手放すことになった。誘惑に負けたのである。

 

そのもう一人の友人と前日に電話をして彼について話した。既に沖縄に行ってから1年半が経過している。彼ももしかしたらすごく変わっているかもしれない。まさか未だに「シネ!」と言っているとは思えない。そんな23歳が存在するとは思えない。

 

まさか。しかしそのまさかを飛び越えてしまうだけのポテンシャルが彼にはあるような気がした。沖縄の風土にどれだけ影響を受けているのかは不明だが、これでアロハシャツにハイビスカスの花飾りを下げ、ニコニコと温厚な顔をしながら罵倒の1つもせずに当たり障りのない世間話を始めようものなら、我々は彼を置き去りに神保町を二人で練り歩くであろう。

 

昔の思い出話から、神保町のカレー屋さんに話題が転じ、古本屋も何軒か見てみたいお店があるんだよねーなどと話していたら、危うく彼と会うことが目的であることを忘れそうになってしまった。

 

ちなみに沖縄の人が着ているシャツはアロハシャツではなくかりゆしウエアというものらしく、彼から訂正を求められた。沖縄に行ったことがないので知らなかったが、これは沖縄の正装に当たる衣服で、本土でいうスーツのようなものだという。なるへそ。

 

 

10:30に集まってカレー屋さんに行くはずが、交通の乱れによって彼の到着が遅れた。暇だったので私と友人で先にカレー屋さんを探して街を探検することにした。はて、彼は辛いものが嫌いであったか。確か辛くてもカレーは好きだと言っていなかったかとフニャフニャ話していると彼が来た。

 

3人が揃って、久しぶりの再会に昔話に花が咲き、近況報告がつつがなく始まるのだろうかとヌルいことを考えていたが、それ以前にまともな会話をすることすら殆ど叶わなかった。私は長期休暇より復帰した悪魔に全く抵抗できず、友人は不思議の宇宙に飛び立ってしまい、彼はその全てに対し真剣で詳細な返答と小学生のような話のチョイスを披露することに余念がなかった。

 

3人中常に誰かは会話を誤解しているという地獄のような状況だったが、私は楽しかった。お祭りは中にいるときは面白く、外からは狂気の沙汰である。全員しっかり耳掃除をしているのか確かめたくなるようなあり得ない聞き間違いが多発しており、麻薬のような快楽に溺れていたのかもしれない。

 

神保町のスマトラカレー屋 共栄堂で昼食を取り、三省堂本店、カキ氷屋さん、古本屋さんを回った後、水道橋の方面に観覧車が見えたのでそちらに行くことにした。

 

 

沖縄では直射日光が強烈な為に散歩をすることは殆どないという。最初は物珍しそうに散歩を楽しんでいる様子であったが、徐々に疲労が溜まってきたらしい。私も友人も少し眠くなってきたところであった。

「暑い」

「疲れた」

「腹減った」

と小学生のようなことばかり言うので、先程までカレー屋で豊富な話題提供をしてくれた博識な人物は別人だっただろうかと眠い頭で考えた。大体この日は曇っていてちっとも暑くなどなく、仮に暑かったとしても沖縄に住んでいるお前がなぜ一番暑がるのだ。むくむくと膨れる疑問を吐き出して、さて我々は水道橋の東京ドームシティにて休憩を取ることにした。

 

施設内にナナズグリーンティーを発見し、自分達がそういえば茶道部の繋がりで知り合ったことを思い出して、抹茶を摂ることになった。私と友人は冷たいラテを飲みながら彼ののろけ話を聞き、ときどき発作のように始まる照れ隠しのアンチ・デリカシーをふんふん言いながら聞いていた。

 

お茶の水を通って秋葉原まで行き、彼が「東京ならではのお店とかでウィンドウショッピングがしたい」と言うので、それでは大人の玩具を扱っているお店に行こうと言ったら本当に行くことになってしまった。彼は商品の訳のわからぬポップに吹き出しながら、医学的観点からアブノーマルなプレイの危険性や謎の媚薬の効用を論じておった。こういう性にオープンなお店は、予想に反して全くいやらしさを感じない。もはやエンターテインメントである。面白いので一度行ってみることを勧める。

 

店を出ると辺りは薄ぼんやりした橙色の景色に変わっていた。彼があんまりお腹減ったお腹減ったとうるさいので、そんなに食事をしてから時間がたったっけと時計を確認してもカフェに寄ってからまだ2時間しか経っていなかった。お金がないと言いつつも彼はそのカフェでパフェを食べていたので、我々はその燃費の悪さに戦慄すると共に思ったことをぽんぽん口にするところは可愛げがあると思った。

 

沖縄の日の出日の入りの感覚は本土と少し異なるようで、夜の8時になってもまだ太陽が出ているという。彼は辺りを見渡してしきりに頷いていた。東京はやはり高級車が多いと言い、道行く車の車種を片っ端から言い当てていた。

 

神田の飲み屋街でバルを見つけて、最後に一杯飲むことになった。ここでも彼は沖縄での出来事、現在の交友関係、車の話など、話題に事欠くことがなく、どれを聞いても私の50倍は生きる力がある男だと感じた。この人に比べると如何に私は抽象化された言葉の世界の中で生きていることだろうと思った。

 

神田から東京へは中央線で一駅なので、3人で歩いて行くことにした。

 

「今日は「シネ!」って何回言うんだろうと思っていたけど、一回も言わなかったね」

と思わず口にしたところ

「そんなに乱用すると、効果が薄れるからね。」

ということで、つまりは言いたいは言いたいが、意識的にセーブしていたらしい。

 

 「いつも真面目な返事しかしないのかい。中身がないリラックスした会話とかしないの?」と聞くと

「勿論、ガァー!とかウンコウンコォ!とかいうぜ!」

と思っていたのと全然違う返事が返ってきた。予測不能にも程がある。

 

「人をイジメることは楽しいことである」と彼は満面の笑みを浮かべながら言った。イジメるというのも暴力に訴えたり、陰湿な嫌がらせをするのとは訳が違う。ウンコ!ウンコ!とひたすらに聞かせるという。

 

こんな生物が存在するとは、私は今日ほど刺激的な1日はそうそうあるものではないと感慨に浸り、そしてこの人はどこか脳に病気を抱えているに違いないと考えた。

 

こんなに笑ったのは、一体いつが最後だったろう。昔を思い出すのか。そうだ、私は今日、2年生の夏の日の、一瞬の会話が忘れられなくてここにいるのだった。私は、彼の前でだけは、全ての束縛から逃れてただの阿呆に成り下がることができた。

 

まともな大人の会話ではないと思うし、きっと恥ずべき、低級な会話であることは分かる。笑えば笑うほど、帰り道がつらくなるのではないかと思った。

 

そうして神田のガード下から歩いていると、東京駅に着いた。

 

「また帰ってくるとき教えてよ。遊びたい」

「ま、空いてたらな」

「えー、空けてよ」

 

彼は私たちに別れを告げて、千葉行きのバスのほうへと歩いて行った。見えなくなるまで、二人で彼が歩いていくのを後ろから眺めていた。

 

私は今日、一体幾つの悪行を積み上げたのであろうか、気化した良識はちゃんと戻ってくるのであろうか。ここには書かなかったが、ものすごい回数彼を置き去りにしてしまったような気がする。それにしても、お腹がよじれるくらい笑うというのは久しぶりのことであったな。そんなことを考えながら電車に乗っていると、1日の反動のような倦怠感が押し寄せてきた。

 

立てなくなるほど笑っても、私には今日が淋しいと思った。私は過去を悔いているのだろうか。失われた仮想の日々に期待しているのだろうか。今日の愉楽が2年前から味わえていたらなどと、後ろ向きなことを考えてしまっているのだろうか。

 

そうだろうか?私が切なく思うのは大人になるときに捨てる、唾棄すべき麻薬的快楽。それを、際限なく生み出している、友人との下らない戯れをあと数年のうちには捨てなくてはならないだろうという予感からである。

 

私達はあと半年で大学生活を終える。あれだけ会っていた高校の同期とも最近はあまり会わなくなった。学生時代の友人達が本当にバラバラになった後、一度味わってしまった快感は、達成感の中で思い出になるのか、喪失感の中で二度と取り戻せない過去になっていくのか。

 

それだけが、少しだけ心配なのである。上手く言えないけれど。