道化の麻薬的快楽と彼の話

少年時代には、抑えがたい「はしゃぎたい」欲求が付き物ではないだろうか。それは子供であることの証であるかもしれない。自分の舵を自分の意識で取れるようになったとき、少年は大人になる。制御の利かない自己という未熟さを捨てて、私たちは自分の操縦の仕方を覚えていく。

 

「8月20日にそっちに帰るよ」

 

そのメッセージを受け取ったのは7月の頭だった。

 

彼が帰ってくる。私はすぐに、もう一人の友人に連絡を取った。

 

 

彼は大学の2年生まで同学年を過ごしたサークルの同輩で、私が出会った中で最も頑固でまじめな人間である。そして恐らく、ふざけるということに関しては恐ろしく柔軟性に欠ける男であった。全くふざけないというわけではなく、寧ろ頻繁に冗談を言ったが、彼の冗談のセンスは、恐らく小学1年生のころから一向に進化していないのだろうと思うほどに凄まじいもので、息をするかのように人に中指を立てており、頭がいいにもかかわらず頻繁に使われる彼の語彙は「バカ」「シネ」「ウンコ」のみであった。これらは恐らく彼のツッコミ3種の神器だったのである。

 

彼は稀に見る強靭な精神力の持ち主で、人のボケに対し手を抜くことなく神器を振るった。彼は私のツボを完全に押さえており、彼と話しているとどうしても私はふざけ倒してしまうのである。阿呆でいられることは、一種の快楽なのであった。

 

彼は意図的にデリカシーを破壊するというポリシーを掲げていた。デリカシーと名乗るものあらば意気揚々と戦争を仕掛けに行くような男であった。ある種の照れ隠しだったのだろうかとも思う。

 

彼は全く自慢にならないことを堂々と自慢した。恐るべき偏食家で、「肉と炭水化物以外は不要」であると言い切った。「野菜全般と生クリームと辛いものとその他もろもろは大嫌い」であるという、衝撃の食わず嫌いであった。あまりに細分化され定義づけられた彼の嫌いなものリストは膨大な量に上り、我々は早々に記憶を諦めた。いったいこの人は何を誇らしげに話しているのだろうかと、私はしきりに首をかしげたものだった。

 

彼はとにかく、よりよく生きることには労を惜しまない人間であった。彼は身につけて役立つと思われる技能には端から興味を持ち、スターバックスで働いた。友達の家に遊びに行ったら彼がいて、必死にオペレーションを勉強していたのを記憶している。なぜ人のうちでスタバの勉強をしていたのかは不明だが、家主は部屋の隅に追いやられており、私は彼が持ってきたスタバのコーヒーを拝借して帰った。

 

彼は万事に於いて、なぜその選択をしたのかに対する説明が用意されているような男であった。これは他と比較しても見どころのある点であり、所謂天然の"伸びる人材"であったのだと思う。その類まれなモチベーション自給力は特筆に値する代物であった。

 

2年生の4月、彼は医学部を再受験することを周囲に告白した。当時私は彼がどれだけの危険を承知で再び挑戦をしようとしているのか、どれだけの覚悟があってその道を選んだのか、理解するだけの関わりを持っていなかったので、その挑戦は現実的には相当厳しいものなのではないかと思っていた。

 

はて、彼は大学のサークルの合宿の係だったので、その係は別の人に頼むのだろうかと思って見ていると、彼はそれをやり切ってからサークルを退会すると言った。そんなことができるのだろうかと、私は半信半疑だった。我々茶道部の合宿の準備は、参加人数が50名ほどということもあり、夏休みが半分吹き飛ぶほど多くの時間と集中力を犠牲にしなければできないことと聞いていたからである。

 

流石に心配にもなって、合宿のしおり作りなどの雑用は一部引き受けることにした。これは普通に私も作っていて楽しい作業だったが、えらく時間が掛かったので申し出て良かったと感じた。逆に言えばそれ以外のことには殆どノータッチだったので彼がどういう夏を過ごしたのかは知らぬままだった。

 

彼は合宿を前例がないほど首尾よくこなした。後に引き継いだ彼のノートにはその莫大な努力を証明する大量の書き込みがなされていた。退会するサークルの為にここまでするなんて、偉い奴だと思った。とてもありがたいけど、彼は半年後に医学部を受験することをちゃんと覚えているのだろうかと思わず疑ってしまうような仕事ぶりだった。

 

合宿の2日目、私が友人と2人でバーベキューの支度をしていると、館内で諸々の仕事を終えた彼が準備の進行確認にやってきた。

 

彼は来てそうそうに「俺は野菜は食わねぇ」と、聞いてもいない反菜食主義宣言をした。私はまたしても悪魔の囁きに従って「きっとバカだから味が分からないんだよ」とプロレスを仕掛け、日課のように浴びてきた彼の「シネ!」をその日もありがたく聞くことにした。

 

その後はタガが外れてしまって、耐えきれなくなった友人と二人で勝手なことを言っては阿呆のように笑い転げ、彼を半ば置き去りにした。これは三日間の合宿で最も愉快な一時であった。私はそこそこに愉快な人間であると言われるが、同時にそこそこに真剣にもなれる人間であると言われる(彼に言われた)。それが彼の前では全く真面目になれないのである。特に誰かもう一人を交えて三人で話すという状況には弱かった。

 

俺の前でも真剣になれよと、そういうことだったのかもしれないが、どうしてもこれは不可能であり、なぜこんなにどうしようもない内容しか喋れなくなってしまうのか、いくら考えてみても、結局理由は分からなかった。

 

彼は医学部に受かった。センター試験本試をインフルエンザで棄権し、追試を受験してからの国立大学医学部合格であった。彼は受かるべくして受かった。後で聞いた彼の受験対策は合宿の仕事を更に凌ぐ綿密な作戦の上で行われていたのである。

 

私は彼に対して半信半疑でいたことを恥じた。合格は彼の決意の深さを物語っているのだから、私が揶揄したのは、私が恐らくは一度もしたことのないような緻密な努力だった。合格後に食事をしたとき、私は彼に謝った。彼は気にするなと言ってくれたが、人の本気に対して、ほんの少しでも嘲りに似た態度を取ってしまった自分が恥ずかしかった。

 

 そして彼は沖縄に旅立っていった。

 

 〇

 

彼が返ってくる。私はすぐに友人に連絡し、3人で集まる約束を取り付けた。誘ったのは例のバーベキューの友人である。

 

詳細を決めるべく、再び彼に連絡を取った。

 

「どこに行きたい?」

「やっぱり横浜かな。こっちに帰ってくるのは久しぶりだから。」

「オッケー!横浜は見るべきところが一つもないから、やめよう!」

 

 初っ端からこんなどうしようもない返信をしたせいで返事が返ってこなくなってしまった。仕方なく、他にどこか面白そうな場所は無いだろうかと考えて、

 

「神保町に行こう」

 

 と送信した。私が行きたかっただけである。彼は結局、千葉から東京に来るのに横浜を経由するわけではないので、横浜に再び立つことはなかった。彼が帰ってくると知った時点から既に、大学4年間で積み上げてきたものが掌から溢れていくような気がした。

 

ああ、そんな人間、どうしようもないロクデナシだということは分かっていても、あまりに自然に私はそれまでの修養を、決意をする暇さえなく手放すことになった。誘惑に負けたのである。

 

そのもう一人の友人と前日に電話をして彼について話した。既に沖縄に行ってから1年半が経過している。彼ももしかしたらすごく変わっているかもしれない。まさか未だに「シネ!」と言っているとは思えない。そんな23歳が存在するとは思えない。

 

まさか。しかしそのまさかを飛び越えてしまうだけのポテンシャルが彼にはあるような気がした。沖縄の風土にどれだけ影響を受けているのかは不明だが、これでアロハシャツにハイビスカスの花飾りを下げ、ニコニコと温厚な顔をしながら罵倒の1つもせずに当たり障りのない世間話を始めようものなら、我々は彼を置き去りに神保町を二人で練り歩くであろう。

 

昔の思い出話から、神保町のカレー屋さんに話題が転じ、古本屋も何軒か見てみたいお店があるんだよねーなどと話していたら、危うく彼と会うことが目的であることを忘れそうになってしまった。

 

ちなみに沖縄の人が着ているシャツはアロハシャツではなくかりゆしウエアというものらしく、彼から訂正を求められた。沖縄に行ったことがないので知らなかったが、これは沖縄の正装に当たる衣服で、本土でいうスーツのようなものだという。なるへそ。

 

 

10:30に集まってカレー屋さんに行くはずが、交通の乱れによって彼の到着が遅れた。暇だったので私と友人で先にカレー屋さんを探して街を探検することにした。はて、彼は辛いものが嫌いであったか。確か辛くてもカレーは好きだと言っていなかったかとフニャフニャ話していると彼が来た。

 

3人が揃って、久しぶりの再会に昔話に花が咲き、近況報告がつつがなく始まるのだろうかとヌルいことを考えていたが、それ以前にまともな会話をすることすら殆ど叶わなかった。私は長期休暇より復帰した悪魔に全く抵抗できず、友人は不思議の宇宙に飛び立ってしまい、彼はその全てに対し真剣で詳細な返答と小学生のような話のチョイスを披露することに余念がなかった。

 

3人中常に誰かは会話を誤解しているという地獄のような状況だったが、私は楽しかった。お祭りは中にいるときは面白く、外からは狂気の沙汰である。全員しっかり耳掃除をしているのか確かめたくなるようなあり得ない聞き間違いが多発しており、麻薬のような快楽に溺れていたのかもしれない。

 

神保町のスマトラカレー屋 共栄堂で昼食を取り、三省堂本店、カキ氷屋さん、古本屋さんを回った後、水道橋の方面に観覧車が見えたのでそちらに行くことにした。

 

 

沖縄では直射日光が強烈な為に散歩をすることは殆どないという。最初は物珍しそうに散歩を楽しんでいる様子であったが、徐々に疲労が溜まってきたらしい。私も友人も少し眠くなってきたところであった。

「暑い」

「疲れた」

「腹減った」

と小学生のようなことばかり言うので、先程までカレー屋で豊富な話題提供をしてくれた博識な人物は別人だっただろうかと眠い頭で考えた。大体この日は曇っていてちっとも暑くなどなく、仮に暑かったとしても沖縄に住んでいるお前がなぜ一番暑がるのだ。むくむくと膨れる疑問を吐き出して、さて我々は水道橋の東京ドームシティにて休憩を取ることにした。

 

施設内にナナズグリーンティーを発見し、自分達がそういえば茶道部の繋がりで知り合ったことを思い出して、抹茶を摂ることになった。私と友人は冷たいラテを飲みながら彼ののろけ話を聞き、ときどき発作のように始まる照れ隠しのアンチ・デリカシーをふんふん言いながら聞いていた。

 

お茶の水を通って秋葉原まで行き、彼が「東京ならではのお店とかでウィンドウショッピングがしたい」と言うので、それでは大人の玩具を扱っているお店に行こうと言ったら本当に行くことになってしまった。彼は商品の訳のわからぬポップに吹き出しながら、医学的観点からアブノーマルなプレイの危険性や謎の媚薬の効用を論じておった。こういう性にオープンなお店は、予想に反して全くいやらしさを感じない。もはやエンターテインメントである。面白いので一度行ってみることを勧める。

 

店を出ると辺りは薄ぼんやりした橙色の景色に変わっていた。彼があんまりお腹減ったお腹減ったとうるさいので、そんなに食事をしてから時間がたったっけと時計を確認してもカフェに寄ってからまだ2時間しか経っていなかった。お金がないと言いつつも彼はそのカフェでパフェを食べていたので、我々はその燃費の悪さに戦慄すると共に思ったことをぽんぽん口にするところは可愛げがあると思った。

 

沖縄の日の出日の入りの感覚は本土と少し異なるようで、夜の8時になってもまだ太陽が出ているという。彼は辺りを見渡してしきりに頷いていた。東京はやはり高級車が多いと言い、道行く車の車種を片っ端から言い当てていた。

 

神田の飲み屋街でバルを見つけて、最後に一杯飲むことになった。ここでも彼は沖縄での出来事、現在の交友関係、車の話など、話題に事欠くことがなく、どれを聞いても私の50倍は生きる力がある男だと感じた。この人に比べると如何に私は抽象化された言葉の世界の中で生きていることだろうと思った。

 

神田から東京へは中央線で一駅なので、3人で歩いて行くことにした。

 

「今日は「シネ!」って何回言うんだろうと思っていたけど、一回も言わなかったね」

と思わず口にしたところ

「そんなに乱用すると、効果が薄れるからね。」

ということで、つまりは言いたいは言いたいが、意識的にセーブしていたらしい。

 

 「いつも真面目な返事しかしないのかい。中身がないリラックスした会話とかしないの?」と聞くと

「勿論、ガァー!とかウンコウンコォ!とかいうぜ!」

と思っていたのと全然違う返事が返ってきた。予測不能にも程がある。

 

「人をイジメることは楽しいことである」と彼は満面の笑みを浮かべながら言った。イジメるというのも暴力に訴えたり、陰湿な嫌がらせをするのとは訳が違う。ウンコ!ウンコ!とひたすらに聞かせるという。

 

こんな生物が存在するとは、私は今日ほど刺激的な1日はそうそうあるものではないと感慨に浸り、そしてこの人はどこか脳に病気を抱えているに違いないと考えた。

 

こんなに笑ったのは、一体いつが最後だったろう。昔を思い出すのか。そうだ、私は今日、2年生の夏の日の、一瞬の会話が忘れられなくてここにいるのだった。私は、彼の前でだけは、全ての束縛から逃れてただの阿呆に成り下がることができた。

 

まともな大人の会話ではないと思うし、きっと恥ずべき、低級な会話であることは分かる。笑えば笑うほど、帰り道がつらくなるのではないかと思った。

 

そうして神田のガード下から歩いていると、東京駅に着いた。

 

「また帰ってくるとき教えてよ。遊びたい」

「ま、空いてたらな」

「えー、空けてよ」

 

彼は私たちに別れを告げて、千葉行きのバスのほうへと歩いて行った。見えなくなるまで、二人で彼が歩いていくのを後ろから眺めていた。

 

私は今日、一体幾つの悪行を積み上げたのであろうか、気化した良識はちゃんと戻ってくるのであろうか。ここには書かなかったが、ものすごい回数彼を置き去りにしてしまったような気がする。それにしても、お腹がよじれるくらい笑うというのは久しぶりのことであったな。そんなことを考えながら電車に乗っていると、1日の反動のような倦怠感が押し寄せてきた。

 

立てなくなるほど笑っても、私には今日が淋しいと思った。私は過去を悔いているのだろうか。失われた仮想の日々に期待しているのだろうか。今日の愉楽が2年前から味わえていたらなどと、後ろ向きなことを考えてしまっているのだろうか。

 

そうだろうか?私が切なく思うのは大人になるときに捨てる、唾棄すべき麻薬的快楽。それを、際限なく生み出している、友人との下らない戯れをあと数年のうちには捨てなくてはならないだろうという予感からである。

 

私達はあと半年で大学生活を終える。あれだけ会っていた高校の同期とも最近はあまり会わなくなった。学生時代の友人達が本当にバラバラになった後、一度味わってしまった快感は、達成感の中で思い出になるのか、喪失感の中で二度と取り戻せない過去になっていくのか。

 

それだけが、少しだけ心配なのである。上手く言えないけれど。

*再考察* 太陽の塔 (森見登美彦)

先日『総特集 森見登美彦』に目を通した。

 

 

300頁を超えるボリューム満点の一冊だった。1頁目にはラッキーなことにサインが…!

 

太陽の塔についても多くの記述が見られた。

 

制作裏話や、作者の意図なんかを読んでしまうと、それまでの私にとっての"太陽の塔"がそれ以前とは決定的に違うものになってしまいそうで、この特集は比較的早く購入していたのにも関わらずしばらく積読にしていた。たとえ私の読み方が作者の意図とは異なる誤読紛いのものであっても、私の青春時代に面白おかしい一撃を加えたこの小説の思い出は、私にとっては大事なものだったからです。

 

 

さて、2ヶ月の期間を置いて、その間に太陽の塔は更に2回読めたので、いよいよ読むことにした。どうやら、太陽の塔は妄想9割のお話らしい…おやおや…

 

 

よく考えてみたら、この手記は何故書かれたのか?

 

つまり…主人公はどういった経緯で手記を書こうと思ったのだろうか?

 

妄想だというのなら、ラストの意味も少し変わってくる。

 

 

答え合わせがしたいわけではない。作品は出版された時点で、独り歩きを始めているはずだ。だから一つの作品から読み手の数だけの物語が生まれる。したがってそもそも答えなど存在しないのではないか?私達に出来ることは、読んで素直に感じたことを大事にすることであって、作者の意図する通りに読もうとすることなどではない。

 

 

この小説が主人公の妄想小説なのだということは、しばし私を混乱させる。

 

一体どこまでが妄想で、どこまでが現実なのか、分からなくなる。

 

 

手記を書くとは

"私"は何故手記を書こうと思ったのか。この"作品"は賞を受賞し出版され読者に読まれているが、普通手記は殆どの人には読まれない。唯一の読者は"私"であるはずだ。

 

"私"がこの手記を何処か公の場へ投稿したということも考えられないではない。だが内容的にその線は薄いと思われる。私的には『"私"が自分が読む為に書いた手記』を、作品世界の外側から我々現実世界の読者がいわば神の目を通すように勝手に読んでいる…といったようなメタ的な読み方がしっくりくる。"私"は読者を想定した書き方をしているが他人に読まれる事態を想定していない。

 

手記であるならば、まず最初のモチベーションは投稿ではないだろう。自分自身を客観的に見つめなおす為。消したくない記憶を忘れないようにする為。自分自身を認める為…

 

ともかく、この手記のメインターゲットは"私"であると思われる。

 

幻想的出来事は妄想である

私は最初、線路を外れて走る叡山電車や彼女の夢の中への潜入などを、ファンタジーとみなして現実と混同させる読み方をした。ファンタジー小説なのだから、そんなあり得ない出来事も実際に起きたとして何の不思議があろうか。

 

しかし氏曰く、これら"あり得ない出来事"は主人公の妄想だという。

 

主人公たちの目線だけでファンタジーにしているわけですよね。だからそれを実際に起こっている出来事として書いてしまったときに面白く読んでもらえるのかどうかがわからなくて。

総特集 森見登美彦 46頁 -ロングインタビュー | 森見登美彦×佐々木敦

 

それまでは、僕が街を歩いていて面白い建物や路地を見たときに妄想したことは、妄想としてでしか書いてはいけないと思っていたんです。だから書くにしろ、「これは妄想ですよ」って言いわけをした上で書いていたんですね。

総特集 森見登美彦 48頁 -ロングインタビュー | 森見登美彦×佐々木敦

 

となると、男同士で集まってくだらない話をしたり、彼女に振られた後彼女研究を継続したり、ええじゃないか騒動(私はこれはギリギリ妄想ではない方の箱にいれたい)といった描写は実際に行われた出来事であると考えても、叡電太陽の塔などの不思議な出来事は、現実を材料の一つとして四畳半で創り出された主人公の作品ということになる。

 

 

つまり現実世界では殆ど何も起きていない

(クリスマスムードがぶち壊されただけである)

 

叡山電車は線路を外れて走っていないし、"私"も遠藤も彼女の夢の中へは行けていないし、彼女の夢の中に私との思い出が未だに転がっているかどうかは分からない。

 

ええじゃないか騒動の後、太陽の塔の下で彼女に会えたことも妄想だということになる。

 

 

そして恐るべきことに、そう考えると作中で"私"はええじゃないか騒動で彼女を人混みの中に見つけたとき以外、殆ど一回も彼女に接触していない。

 

ともかく、我々の日常の大半は、そのような豊かで過酷な妄想によって成り立っていた。

かつて飾磨はこう言った。

「我々の日常の九〇パーセントは、頭の中で起こっている」

太陽の塔 -82頁

 

つまりだ。"私"は今の水尾さんの考えていることは全く何ひとつ分かりようがないのである。だから過去を振り返って想像する。彼女がまだ自分との思い出を覚えていてくれないかと。そしてそんな妄想をしていくうちに、継続してきた強がりの理論武装にひびが入っていく。

 

その妄想をしてしまうという事実は、"私"がいかに彼女を好きだったかを自覚させるには十分過ぎるものだったからだ。"私"はその自覚を拒み続けることで…彼女への未練を研究と書き換えることで平静を保ってきたのに。

 

何の為の手記か

この手記は、"私"が"私"の為に書いた、失恋の始まりから終わりまでを描いた作品だ。そして、"手記を書いている" という事実から想像されるのは、"私"は"私"の望むような展開を手にすることができなかったということだ。

 

私は明らかに主人公贔屓の偏光眼鏡を掛けていたので、2人が結ばれるまでいかぬまでも、その先を感じさせるような想像をしてきた。つまり、この物語を"彼等の"再生だと捉えていた。

 

でも、全てが妄想だったというのなら、そんな想像は少しだけ改めなくてはいけない。これは主人公の立ち直りまでを描いた"彼の"再生の物語であり、彼は太陽の塔の前で自分の弱さと対峙し、妄想の世界から次の一歩を決意したのではないだろうか。

 

 

 

この小説は主人公の気持ちの整理の最後の一歩だった。

 

そう思って読むと、何とも切ないなぁ…

*考察* 太陽の塔 (森見登美彦)

森見登美彦氏をご存知だろうか。ご存知ない方にも

四畳半神話大系

夜は短し歩けよ乙女

ペンギン・ハイウェイ

などの著者だと言えばきっと分かってもらえるだろう。アニメ化や映画化されることが多い作家さんなので、作品は聞いたことある!という人は多いと思う。

 

太陽の塔』は登美彦氏の処女作であり、私の愛読書の一冊であり、愛すべき阿呆な大学生の一人称小説であり、傑作である。

 

劇中活躍する登場人物は殆どが男性。主人公である""から見た女性が時たま現れるのみで基本的には男子学生がページを跳梁跋扈する。どんな話か、あらすじを引用すると

 

 

太陽の塔 (森見登美彦)

私の大学生活には華がない。特に女性とは絶望的に縁がない。三回生の時、水尾さんという恋人ができた。毎日が愉快だった。しかし水尾さんはあろうことか、この私を振ったのであった!クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。失恋を経験したすべての男たちとこれから失恋する予定の人に捧ぐ、日本ファンタジーノベル大賞受賞作。

-裏表紙より

 

簡単に言ってしまえば、クリスマスムード渦巻く京都の街を、モテない男達が奔走し、最終的にクリスマスを破壊するというオモシロ小説である。

 

この小説は人を選ぶ。恋人たちに満腔の憎悪を燃やし、完全無欠のホモソーシャルコミュニティに立てこもる彼らの常軌を逸した姿が読者を選別する。

 

男達を駆り立てるのは、彼等がありきたりと呼ぶ幸せへの僻みであり、その行動は否定したくないけれども手に入らないが故に否定してしまうという捻じ曲がった紆余曲折の帰結だ。

 

血塗れのダンスも、自分がやるのと人のを見るのとでは訳が違う。だからこそ、この手記を読む私達は彼等の勇姿を拝して楽しむことができるのであり、"私"は途中で一度恋人を作るに至る。

 

私はこの小説、氏の文体や感性が大好きだが、何度も読むうちに冷静になってしまい、危うくドン引きしそうになったことがある。

 

ただ、夢玉開封邪眼ゴキブリキューブ悲しみの不規則配列、そしてええじゃないか騒動。字面だけ見てもなんだか笑えるギミックの数々に加え、変わり者の元恋人、阿保を極めし友人達、いじらしいほど強がりで理屈っぽい性格の主人公。

 

 

京大生の知的なユーモアに不思議な出来事が足されて、男臭いストーリーのはずなのに、最後はちょっぴり切ない気分になる。爆笑しながら読み進めた後は、狐に化かされたような摩訶不思議な感覚が残る。

 

私はこの小説が大好きなので、娯楽としてのみではなく、愛読書としての太陽の塔を今一度掘り下げてみようと思ったのです。

 

 

 

太陽の塔(新潮文庫)

太陽の塔(新潮文庫)

 

 

"私"と水尾さん

腐れ大学生の日常と並行してこの小説で描かれるのは、"私"から見た水尾さんの記憶である。彼女自身が出てくることは殆どない。"私"の作中での状況は以下のものだ。

私は奈良で生まれ、一時期大阪に住み、思春期はふたたび奈良で過ごし、大学入学と同時に京都に住むようになった。今年の冬でほぼ五年、京都で過ごしていることになる。四回生の春には農学部の研究室にいたが、わけあって長い逃亡生活に入った。

(中略)

現在の私は、「休学中の五回生」という、大学生の中でもかなりタチの悪い部類に属している。

-6頁

 こういう状況は考えただけでもツライ気分になる。研究室に行かなくなり、復帰もできないまま休学中というのは、かなり厳しい状況だ。それでやっていることが、一年前に別れた彼女のストーキングである。「彼女研究」など言ってふざけているので、一読目はなんだか余裕そうな主人公だと思っていたが、わざわざ「研究」などと言ったり、本屋で形だけ学術書を読んでみたりと、現状に対して明らかにストレスを抱えており、いよいよ"私"の精神状態が心配になる。

 

この小説は"私"の手記という形をとっている為、過去の出来事は回想という形で挿入され、順序はばらばらに配置されている。"私"と元カノである水尾さんとの出来事を整理してみることにする。

 

3回生の夏頃、"私"は水尾さんという恋人を作る。初めて恋人と過ごすクリスマスイブに浮き足立った"私"は招き猫の置物をプレゼントし、それを余計な物扱いした水尾さんと喧嘩をする。冬の夜道、彼女の前髪に積もった雪を払い、バレンタインの日には手紙を書く。逃亡先のロンドンからも連載作家の如く手紙を書く。彼女を太陽の塔へ連れて行き、彼女とともに夜を歩き、彼女と一緒に漫才番組を観る。そして2度目のクリスマス直前に別れを切り出される。

 

断片的に記述される彼女との思い出を貼り合わせると大体このようになる。

記憶を辿るとき、思い出は脚色されるのかもしれない。ただ、私はこの主人公がなんだかんだ言ってしっかり1年間恋愛を楽しんでいるように思えた。

 

 

線路から外れて走る叡山電車

この物語で鍵となるのは、線路を外れて京都の町を疾走する叡山電車と、その向かう先にある太陽の塔だ。叡山電車に関するあり得ない描写は一体どう解釈したら良いのだろう?初めてこの幻想的叡山電車の話題が出てくるのは、主人公がクラブの元後輩と話をする場面である。

 

湯島は青白い顔をして廊下に立っていた。

「なんだ。どうした」

「なんだか僕にも分かりません。最近、幻覚を見るんです。」

「何を見る?」

「眠れないので起きていると、夜中にアパートの裏をね、何かがゴトゴト通るんです。窓を見たら、叡山電車なんです」

「お前の下宿、どこだっけ」

「うちは一条寺ですけど、近くに線路なんてありません」

「じゃあ、おかしいじゃないか」

「先輩、叡山電車が線路から外れて走るなんていうことありますか。そういうことって有り得ますか」

-57頁

叡山電車京都大学最寄りの出町柳駅から出て北方へ向かい、宝ヶ丘駅で北と東の二手に分かれる京都の鉄道だ。物語に登場するのは二両編成の叡山電車。私も京都を訪れた際これに乗って鞍馬の方まで観光に行った。


湯島という"私"の後輩は線路から外れて走る叡山電車を見たという。"私"はこの時点では、それは湯島の妄想、精神疾患気味ゆえの幻覚症状だとしてまともに取り合おうとしない。

 

しかし

 

後に"私"は、湯島の幻覚だと断じたその幻想的叡山電車に、あろうことか乗り込んでしまうのである。

 

ほとんど手探りで路地を抜け、廃墟ビルの中庭に出たところで、私は古い駅舎の天蓋に反響する発車ベルの音を聞いた。私は思わず駆け出して、黒光りする木製の古い改札を通り、レンガ造りの古めかしい壁を横目に見ながら、駅員も旅客もいない歩廊を駆け抜けて、二両編成の叡山電車に飛び乗った。

-160頁

とすれば、線路上を走らない叡山電車は幻覚などではなかったのだろうか。あるいは、"私"も幻覚にとらわれ、さらに一歩進んでその幻覚に乗車するという妄想に取り憑かれてしまったのであろうか。

 

後者だとすれば。この小説が、"私"による手記だと冒頭明言されていることを踏まえれば、このような不思議な出来事は全て"私"の妄想であると片づけることができる。だけど、私は前者だと思いたい。

 

ファンタジーに理屈を求めるのはお門違いである。ハリーポッターを読む人で、魔法の合理的説明だとか科学的根拠だとかを気にしながら読む人はいないだろう。というか、そのように読むべきものではない。ファンタジーとは、そこに含まれる説明されないフシギの一切合切を、それ以上説明されえない還元不能な原子とみなすことによって成り立ち、またそうみなされるべきものである。

 

この小説は日本ファンタジーノベル大賞を受賞している。果たしてファンタジーかと言われたら、私はれっきとしたファンタジーであると思う。この小説では妄想と現実の区別がかなりあいまいに書かれている。喫茶店で働く女性の身の上についてあれこれ述べたと思ったらすべて妄想なのである!というふざけたシーンもあれば、明らかにSFのような不思議な展開には妄想ですなんて言及はされない。

 

なので私は、路線を無視して運行する不思議な叡山電車に始まる物語の謎を、手記という構造を利用した主人公の妄想の記述ではなく、主人公が確かに体験した幻想的現実としてとらえることにするのである。叡山電車は、確かに線路を外れて街を走っていた!ネコバスみたいなもんだということだ。

 

 

太陽の塔と招き猫

叡山電車が向かう先は、水尾さんの夢の中だった。

 

恐るべきことに、"私"の彼女研究の対象範囲は、

遂に彼女の精神領域まで及んでしまった!

 

"私"は水尾さんと3回生の夏頃に付き合って、4回生のクリスマスの前に別れているため、交際期間は約1年半ということになる。作中時間での現在は5回生の12月なのだから、別れてからたっぷり1年間は経っているのだ。

 

初めて付き合った相手というのは確かに特別ではあるかもしれない。しかし、それでも3ヶ月くらいしたら諦めを付けるのが精神衛生的には良いだろう。いつまでもやり直せない過去に囚われていたら苦しくて仕方がないからだ。水尾さん研究なんかをするから、きっといつまでも忘れられない。その意味でこの主人公、漢としての気合が入りすぎている。

 

別れた直接的理由は、作中示されていない。人間は、自分が振られた理由などはっきりと分かるものではないのだ。ましてや自分が相手のことを本当に好きだった場合には。本気の恋愛をしている時、人の脳みその性能は100分の1以下になる。

 

何が問題であったろう。しかし宙に浮かぶ城の中で考えてみても、なんの決着もつかない。かえって私は迷宮へ迷い込んだ。

 

クリスマスに太陽電池で動く招き猫を贈ったのが問題であったか、それとも自分の好物という理由だけで鰻の肝を食べさせて彼女の身体にぷくぷくと蕁麻疹を作らせたのが問題であったか、それともいつまでたっても宇治十帖を読めなかったのが問題であったか、彼女に太陽の塔を見せたのが問題であったか、あるいは、あるいは

 

あるいは彼女には理解できないほどに私が偉大であったのか。まさか。

-228頁

 

ここの独白は、それまでとは一転"私"が脆く弱い部分を見せるシーンなのだけど、振られた経験のある人なら誰もが思わず胸が締め付けられるような自問自答のセリフである。

 

深い後悔と答えが見えないやり切れなさ。だって付き合っているときは終わるなんて夢にも思っていないから。私は太陽の塔屈指の名シーンだと思っている。

 

 

"私"が回顧する一つ一つは、恐らく悔やむべくもない笑い話に思われるし、きっと彼女もそんな些細な理由で"私"を振ったのではないのではないか。

 

どうして彼女は"私"を拒否したのだろうか。

"私"はお別れの相談をまるで予期せぬ天変地異のように語っているが、"私"が気付いてもいないような彼女の緩やかな心の変化が実はあったのだろうか。しかし、真相は語り部ではない彼女の心の中にのみにあって、いくら読んでも、こればっかりは想像するしかない。

 


彼女は、よく眠る人だった。そして、眠り込んだ彼女は京都の街を叡山電車で移動して、夢の空間へと向かう。そこには何があったか。太陽の塔と招き猫があったのである。

 

水尾さんは主人公達に負けず劣らず変人であるが、変人に人間の心理の常識が通じない理由はなく、例えば彼女は美味しいものを食べれば笑い、自分のダメな部分に溜息をつき、太陽の塔に興奮し、"私"と共に笑った。そして、変人ではあっても彼女はまっすぐであった。ならば我々にも彼女を想像する余地があるのである。

 

彼女の夢の中に、"私"との思い出が散らばっている。破局には穏やかな崩壊と刹那的崩壊とがあるにしても、別れたのであればそれは記憶していては重荷になる過去である。だってそれは捨ててもいいものだから。他のもので置き換えてもいいものだから。

 

彼女が"私"とは独立して太陽の塔にメロメロだとしても。彼女は"私"との思い出を夢の中に1年間も一杯に取っておいた。そこに未練があるのか、彼女が"私"をどう思っているかは分からない。

 

ただ、"私"が彼女を研究対象!と嘯くほど想っていたように、彼女だって"私"を特別な人だと思っていたんじゃないだろうか。

 

 

"私"は彼女のことを最早どうでもよいと言ってのけた。ライバルを応援するような謎の自虐的行為にさえ及んだ。そしてクリスマスの夜。ええじゃないか騒動の渦中でようやく認めるに至るのである。どうでも良いわけがあるかと。

 


"私"は彼女のことを思い出す。彼女がどんな女性であったか。どれだけ"私"が彼女を好きであったか。

 


そして"私"は再び幻想的叡山電車に乗る。彼女が夢見る太陽の塔へ。

 


読者の想像するような結末

何かしらの点で彼らは根本的に間違っている。

なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。

-5頁

"私"は太陽の塔の下で彼女と邂逅する。

 

この主人公、散々クリスマスに悪態をついておきながら、しっかりクリスマス・イヴに彼女に会っている

(とてつもない裏切り行為!)


少なくとも物語を通して強がりをはってきた"私"が、意地を捨てた後の邂逅。

 

 

基本的には彼女の研究という犯罪スレスレ行為を1年も続けてきた"私"。じゃあ彼女から見たら"私"は、どういう人間であったのだろう。

 

彼女の夢の中には"私"との思い出が散らばっていて、それなら今も"私"を忘れずに過ごしているということだろうか。

 


"私"は彼女に何を伝えたのだろうか?彼女はなんと答えたのだろうか?

 


復縁できるような伏線も接触もイベントも一切なく、彼女が"私"のことをどう考えているかも分からない。それでも

 

そこから先のことを書くつもりはない。

大方、読者が想像されるような結末だったようである。

 

 

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。

そして、まあ、おそらく私も間違っている。

-230,231頁

 

この結びを内省と読むか、"恋人と過ごす幸せ"を享受することの肯定と読むか。或いはその両方か。

 

"私"は改めて、現実世界で彼女をデートに誘ったんじゃないかな。

 

 

"私"の再生の物語。

 

 

彼女の返事について、"成就した恋ほど語るに値するものはない"と、私はそちらの結末を想像しようと思うのです。