*考察* 太陽の塔 (森見登美彦)

森見登美彦氏をご存知だろうか。ご存知ない方にも

四畳半神話大系

夜は短し歩けよ乙女

ペンギン・ハイウェイ

などの著者だと言えばきっと分かってもらえるだろう。アニメ化や映画化されることが多い作家さんなので、作品は聞いたことある!という人は多いと思う。

 

太陽の塔』は登美彦氏の処女作であり、私の愛読書の一冊であり、愛すべき阿呆な大学生の一人称小説であり、傑作である。

 

劇中活躍する登場人物は殆どが男性。主人公である""から見た女性が時たま現れるのみで基本的には男子学生がページを跳梁跋扈する。どんな話か、あらすじを引用すると

 

 

太陽の塔 (森見登美彦)

私の大学生活には華がない。特に女性とは絶望的に縁がない。三回生の時、水尾さんという恋人ができた。毎日が愉快だった。しかし水尾さんはあろうことか、この私を振ったのであった!クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。失恋を経験したすべての男たちとこれから失恋する予定の人に捧ぐ、日本ファンタジーノベル大賞受賞作。

-裏表紙より

 

簡単に言ってしまえば、クリスマスムード渦巻く京都の街を、モテない男達が奔走し、最終的にクリスマスを破壊するというオモシロ小説である。

 

この小説は人を選ぶ。恋人たちに満腔の憎悪を燃やし、完全無欠のホモソーシャルコミュニティに立てこもる彼らの常軌を逸した姿が読者を選別する。

 

男達を駆り立てるのは、彼等がありきたりと呼ぶ幸せへの僻みであり、その行動は否定したくないけれども手に入らないが故に否定してしまうという捻じ曲がった紆余曲折の帰結だ。

 

血塗れのダンスも、自分がやるのと人のを見るのとでは訳が違う。だからこそ、この手記を読む私達は彼等の勇姿を拝して楽しむことができるのであり、"私"は途中で一度恋人を作るに至る。

 

私はこの小説、氏の文体や感性が大好きだが、何度も読むうちに冷静になってしまい、危うくドン引きしそうになったことがある。

 

ただ、夢玉開封邪眼ゴキブリキューブ悲しみの不規則配列、そしてええじゃないか騒動。字面だけ見てもなんだか笑えるギミックの数々に加え、変わり者の元恋人、阿保を極めし友人達、いじらしいほど強がりで理屈っぽい性格の主人公。

 

 

京大生の知的なユーモアに不思議な出来事が足されて、男臭いストーリーのはずなのに、最後はちょっぴり切ない気分になる。爆笑しながら読み進めた後は、狐に化かされたような摩訶不思議な感覚が残る。

 

私はこの小説が大好きなので、娯楽としてのみではなく、愛読書としての太陽の塔を今一度掘り下げてみようと思ったのです。

 

 

 

太陽の塔(新潮文庫)

太陽の塔(新潮文庫)

 

 

"私"と水尾さん

腐れ大学生の日常と並行してこの小説で描かれるのは、"私"から見た水尾さんの記憶である。彼女自身が出てくることは殆どない。"私"の作中での状況は以下のものだ。

私は奈良で生まれ、一時期大阪に住み、思春期はふたたび奈良で過ごし、大学入学と同時に京都に住むようになった。今年の冬でほぼ五年、京都で過ごしていることになる。四回生の春には農学部の研究室にいたが、わけあって長い逃亡生活に入った。

(中略)

現在の私は、「休学中の五回生」という、大学生の中でもかなりタチの悪い部類に属している。

-6頁

 こういう状況は考えただけでもツライ気分になる。研究室に行かなくなり、復帰もできないまま休学中というのは、かなり厳しい状況だ。それでやっていることが、一年前に別れた彼女のストーキングである。「彼女研究」など言ってふざけているので、一読目はなんだか余裕そうな主人公だと思っていたが、わざわざ「研究」などと言ったり、本屋で形だけ学術書を読んでみたりと、現状に対して明らかにストレスを抱えており、いよいよ"私"の精神状態が心配になる。

 

この小説は"私"の手記という形をとっている為、過去の出来事は回想という形で挿入され、順序はばらばらに配置されている。"私"と元カノである水尾さんとの出来事を整理してみることにする。

 

3回生の夏頃、"私"は水尾さんという恋人を作る。初めて恋人と過ごすクリスマスイブに浮き足立った"私"は招き猫の置物をプレゼントし、それを余計な物扱いした水尾さんと喧嘩をする。冬の夜道、彼女の前髪に積もった雪を払い、バレンタインの日には手紙を書く。逃亡先のロンドンからも連載作家の如く手紙を書く。彼女を太陽の塔へ連れて行き、彼女とともに夜を歩き、彼女と一緒に漫才番組を観る。そして2度目のクリスマス直前に別れを切り出される。

 

断片的に記述される彼女との思い出を貼り合わせると大体このようになる。

記憶を辿るとき、思い出は脚色されるのかもしれない。ただ、私はこの主人公がなんだかんだ言ってしっかり1年間恋愛を楽しんでいるように思えた。

 

 

線路から外れて走る叡山電車

この物語で鍵となるのは、線路を外れて京都の町を疾走する叡山電車と、その向かう先にある太陽の塔だ。叡山電車に関するあり得ない描写は一体どう解釈したら良いのだろう?初めてこの幻想的叡山電車の話題が出てくるのは、主人公がクラブの元後輩と話をする場面である。

 

湯島は青白い顔をして廊下に立っていた。

「なんだ。どうした」

「なんだか僕にも分かりません。最近、幻覚を見るんです。」

「何を見る?」

「眠れないので起きていると、夜中にアパートの裏をね、何かがゴトゴト通るんです。窓を見たら、叡山電車なんです」

「お前の下宿、どこだっけ」

「うちは一条寺ですけど、近くに線路なんてありません」

「じゃあ、おかしいじゃないか」

「先輩、叡山電車が線路から外れて走るなんていうことありますか。そういうことって有り得ますか」

-57頁

叡山電車京都大学最寄りの出町柳駅から出て北方へ向かい、宝ヶ丘駅で北と東の二手に分かれる京都の鉄道だ。物語に登場するのは二両編成の叡山電車。私も京都を訪れた際これに乗って鞍馬の方まで観光に行った。


湯島という"私"の後輩は線路から外れて走る叡山電車を見たという。"私"はこの時点では、それは湯島の妄想、精神疾患気味ゆえの幻覚症状だとしてまともに取り合おうとしない。

 

しかし

 

後に"私"は、湯島の幻覚だと断じたその幻想的叡山電車に、あろうことか乗り込んでしまうのである。

 

ほとんど手探りで路地を抜け、廃墟ビルの中庭に出たところで、私は古い駅舎の天蓋に反響する発車ベルの音を聞いた。私は思わず駆け出して、黒光りする木製の古い改札を通り、レンガ造りの古めかしい壁を横目に見ながら、駅員も旅客もいない歩廊を駆け抜けて、二両編成の叡山電車に飛び乗った。

-160頁

とすれば、線路上を走らない叡山電車は幻覚などではなかったのだろうか。あるいは、"私"も幻覚にとらわれ、さらに一歩進んでその幻覚に乗車するという妄想に取り憑かれてしまったのであろうか。

 

後者だとすれば。この小説が、"私"による手記だと冒頭明言されていることを踏まえれば、このような不思議な出来事は全て"私"の妄想であると片づけることができる。だけど、私は前者だと思いたい。

 

ファンタジーに理屈を求めるのはお門違いである。ハリーポッターを読む人で、魔法の合理的説明だとか科学的根拠だとかを気にしながら読む人はいないだろう。というか、そのように読むべきものではない。ファンタジーとは、そこに含まれる説明されないフシギの一切合切を、それ以上説明されえない還元不能な原子とみなすことによって成り立ち、またそうみなされるべきものである。

 

この小説は日本ファンタジーノベル大賞を受賞している。果たしてファンタジーかと言われたら、私はれっきとしたファンタジーであると思う。この小説では妄想と現実の区別がかなりあいまいに書かれている。喫茶店で働く女性の身の上についてあれこれ述べたと思ったらすべて妄想なのである!というふざけたシーンもあれば、明らかにSFのような不思議な展開には妄想ですなんて言及はされない。

 

なので私は、路線を無視して運行する不思議な叡山電車に始まる物語の謎を、手記という構造を利用した主人公の妄想の記述ではなく、主人公が確かに体験した幻想的現実としてとらえることにするのである。叡山電車は、確かに線路を外れて街を走っていた!ネコバスみたいなもんだということだ。

 

 

太陽の塔と招き猫

叡山電車が向かう先は、水尾さんの夢の中だった。

 

恐るべきことに、"私"の彼女研究の対象範囲は、

遂に彼女の精神領域まで及んでしまった!

 

"私"は水尾さんと3回生の夏頃に付き合って、4回生のクリスマスの前に別れているため、交際期間は約1年半ということになる。作中時間での現在は5回生の12月なのだから、別れてからたっぷり1年間は経っているのだ。

 

初めて付き合った相手というのは確かに特別ではあるかもしれない。しかし、それでも3ヶ月くらいしたら諦めを付けるのが精神衛生的には良いだろう。いつまでもやり直せない過去に囚われていたら苦しくて仕方がないからだ。水尾さん研究なんかをするから、きっといつまでも忘れられない。その意味でこの主人公、漢としての気合が入りすぎている。

 

別れた直接的理由は、作中示されていない。人間は、自分が振られた理由などはっきりと分かるものではないのだ。ましてや自分が相手のことを本当に好きだった場合には。本気の恋愛をしている時、人の脳みその性能は100分の1以下になる。

 

何が問題であったろう。しかし宙に浮かぶ城の中で考えてみても、なんの決着もつかない。かえって私は迷宮へ迷い込んだ。

 

クリスマスに太陽電池で動く招き猫を贈ったのが問題であったか、それとも自分の好物という理由だけで鰻の肝を食べさせて彼女の身体にぷくぷくと蕁麻疹を作らせたのが問題であったか、それともいつまでたっても宇治十帖を読めなかったのが問題であったか、彼女に太陽の塔を見せたのが問題であったか、あるいは、あるいは

 

あるいは彼女には理解できないほどに私が偉大であったのか。まさか。

-228頁

 

ここの独白は、それまでとは一転"私"が脆く弱い部分を見せるシーンなのだけど、振られた経験のある人なら誰もが思わず胸が締め付けられるような自問自答のセリフである。

 

深い後悔と答えが見えないやり切れなさ。だって付き合っているときは終わるなんて夢にも思っていないから。私は太陽の塔屈指の名シーンだと思っている。

 

 

"私"が回顧する一つ一つは、恐らく悔やむべくもない笑い話に思われるし、きっと彼女もそんな些細な理由で"私"を振ったのではないのではないか。

 

どうして彼女は"私"を拒否したのだろうか。

"私"はお別れの相談をまるで予期せぬ天変地異のように語っているが、"私"が気付いてもいないような彼女の緩やかな心の変化が実はあったのだろうか。しかし、真相は語り部ではない彼女の心の中にのみにあって、いくら読んでも、こればっかりは想像するしかない。

 


彼女は、よく眠る人だった。そして、眠り込んだ彼女は京都の街を叡山電車で移動して、夢の空間へと向かう。そこには何があったか。太陽の塔と招き猫があったのである。

 

水尾さんは主人公達に負けず劣らず変人であるが、変人に人間の心理の常識が通じない理由はなく、例えば彼女は美味しいものを食べれば笑い、自分のダメな部分に溜息をつき、太陽の塔に興奮し、"私"と共に笑った。そして、変人ではあっても彼女はまっすぐであった。ならば我々にも彼女を想像する余地があるのである。

 

彼女の夢の中に、"私"との思い出が散らばっている。破局には穏やかな崩壊と刹那的崩壊とがあるにしても、別れたのであればそれは記憶していては重荷になる過去である。だってそれは捨ててもいいものだから。他のもので置き換えてもいいものだから。

 

彼女が"私"とは独立して太陽の塔にメロメロだとしても。彼女は"私"との思い出を夢の中に1年間も一杯に取っておいた。そこに未練があるのか、彼女が"私"をどう思っているかは分からない。

 

ただ、"私"が彼女を研究対象!と嘯くほど想っていたように、彼女だって"私"を特別な人だと思っていたんじゃないだろうか。

 

 

"私"は彼女のことを最早どうでもよいと言ってのけた。ライバルを応援するような謎の自虐的行為にさえ及んだ。そしてクリスマスの夜。ええじゃないか騒動の渦中でようやく認めるに至るのである。どうでも良いわけがあるかと。

 


"私"は彼女のことを思い出す。彼女がどんな女性であったか。どれだけ"私"が彼女を好きであったか。

 


そして"私"は再び幻想的叡山電車に乗る。彼女が夢見る太陽の塔へ。

 


読者の想像するような結末

何かしらの点で彼らは根本的に間違っている。

なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。

-5頁

"私"は太陽の塔の下で彼女と邂逅する。

 

この主人公、散々クリスマスに悪態をついておきながら、しっかりクリスマス・イヴに彼女に会っている

(とてつもない裏切り行為!)


少なくとも物語を通して強がりをはってきた"私"が、意地を捨てた後の邂逅。

 

 

基本的には彼女の研究という犯罪スレスレ行為を1年も続けてきた"私"。じゃあ彼女から見たら"私"は、どういう人間であったのだろう。

 

彼女の夢の中には"私"との思い出が散らばっていて、それなら今も"私"を忘れずに過ごしているということだろうか。

 


"私"は彼女に何を伝えたのだろうか?彼女はなんと答えたのだろうか?

 


復縁できるような伏線も接触もイベントも一切なく、彼女が"私"のことをどう考えているかも分からない。それでも

 

そこから先のことを書くつもりはない。

大方、読者が想像されるような結末だったようである。

 

 

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。

そして、まあ、おそらく私も間違っている。

-230,231頁

 

この結びを内省と読むか、"恋人と過ごす幸せ"を享受することの肯定と読むか。或いはその両方か。

 

"私"は改めて、現実世界で彼女をデートに誘ったんじゃないかな。

 

 

"私"の再生の物語。

 

 

彼女の返事について、"成就した恋ほど語るに値するものはない"と、私はそちらの結末を想像しようと思うのです。